「nWo」創始者エリック・ビショフ氏が明かす新日本プロレスとの秘話〈2〉…破たんしたWCWと新日本との関係修復

エリック・ビショフ氏
エリック・ビショフ氏

 1990年代に米国で「WWE」と並ぶプロレス団体「WCW」の現場責任者で副社長だったエリック・ビショフ氏(63)がこのほど、来日しスポーツ報知の取材に応じた。ビショフ氏は、90年代に新日本プロレスと提携し96年に日米のマット界を股にかけたユニット「nWo」で一大旋風を起こした。新日本との提携では、当時の渉外担当で昨年7月14日に75歳で亡くなったマサ斎藤さんと協力し、新日本のドームツアーの成功にも尽力した。「Web報知」では、ビショフ氏に当時の秘話とこれからのプロレス界の進む道を連載します。2回目は、新日本プロレスとの提携交渉。

 マサ斎藤さんに憧れたビショフ氏は、ミネソタ州のミネトンカハイスクールからセント・クラウド州立大学へ進み、途中、「授業料が高かった」という理由でミネソタ大学へ転学した。

 高校時代は、レスリングに熱中し2年生の時にミネソタ州の大会でブラッド・レイガンズと出会う。レイガンズは、その後、1976年のモントリオール五輪でレスリング・グレコローマン100キロ級で4位。続く80年モスクワ五輪では金メダルが確実視される世界最強の実力を持っていたが、ソ連のアフガニスタン侵攻で米国が参加をボイコットし出場はかなわなかった。そして、バーン・ガニアにスカウトされ81年12月にガニアが主宰するAWAでプロレスデビューを果たす。AWAには、マサさんが参戦しており、2人の絆が1990年代の新日本プロレスとWCWとの提携に大きな貢献を果たすことになる。

 一方、ビショフ氏は、高校時代に後のプロレスビジネスにつながる才能を発揮する。レスリングのスウェーデンチームとの国際試合のチケット販売が思わしくなかったため、ひらめきでガニアに直談判しAWAの試合を放送するテレビ番組で大会をPR。センス抜群のトークで大会の魅力を語ると、チケットは一転、好調な売れ行きを示したという。WCWを引っ張った思い立つと即、行動に移す実行力は、高校時代から芽生えていたのだ。

 大学時代のビショフ氏は、造園業などの会社を設立しビジネスでも一時は成功を収めた。ただ、事業が思わしくなくなると、様々な仕事に携わり多彩な才能を発揮し生計を立てた。また、空手にも没頭し黒帯を取得するなど、武道を通じて日本文化に触れる私生活も送っていた。

 そして、高校時代に生まれたガニアとの縁から、87年にAWAへ正式にリングアナウンサーとして加入し、AWA崩壊後の91年にWCWへ移籍した。WCWでは、卓越したアイデアとプロレスへの情熱で能力を発揮し94年には副社長となり、事実上、フロント部門のトップにまで駆け上がった。ビショフ氏がWCWへ入った91年は、新日本プロレスと提携関係にあったが、現場責任者となった94年当時、関係は破綻していた。

 「WCWと新日本の関係が壊れたのは、私の前の責任者だったビル・ワットが新日本に対して契約の不履行したためです。新日本は、提携料として年間5000万円をWCWに支払っていました。WCWは、その対価として、新日本が希望する選手を送る約束でした。ところが、ビル・ワットがその約束を守らず、選手を派遣しなかったため、関係は破綻しました」

 ビショフ氏は、自らが現場トップに立った時、真っ先に新日本との関係を修復したかったという。

 「なぜなら、私は、WCWを世界的な団体にしたかったのです。多様性のある団体にしたかった。そのためには、日本は重要なマーケットでそこで最大の団体である新日本との関係を築くことはWCWにとって大切なことだと考えていたからです」

 ビショフ氏からの関係修復への打診に新日本は、慎重だったという。

 「ここで、新日本がWCWに対して、どう思っていたかを話すことはできない。その時、私からの申し入れに対し、新日本は用心深く、慎重にゆっくりと交渉を進めてきました。ただ、前に起きたことの責任は、取れない。私にとって、とにかくやらなければいけないことは悪い関係の修復でそれが私の責任でした」

 ビショフ氏は、再び提携関係を結ぶために来日する。WCWの日本担当マネジャーのサニー・オノオこと小野尾和男を帯同した。一方、新日本側の交渉の窓口が、当時、渉外担当トップだったマサさんだった。橋渡しをしてくれたのが、高校時代からの友人でマサさんともAWA時代に旧知だったブラッド・レイガンズだった。

 「ブラッドが新日本とWCWの懸け橋になってくれた」

 新日本との交渉の席には、当時、社長だった坂口征二、現場責任者だった長州力、そしてマサさんが臨んでいた。

 「マサと初めての仕事は1994年。新日本との関係を改善するためにミーティングをした時だった。そこで、マサと会った印象は、ファンだった時にテレビで初めて見た印象とまったく同じだった。威厳があり、礼儀正しい人だった。そして交渉のキーパーソンはマサだった」

 関係修復を訴えるビショフ氏の熱意にマサさんは、真正面から受け止めてくれたという。そして、新日本は、WCWとの提携再開を決断した。

 「私にとって、憧れだったマサと一緒に仕事する事になるなんてまるで、雲にも登る気分だった。そして、ビジネスを進めていく中でマサの言葉はシンプルで、説得力があった。何よりも仕事ぶりは、アートだった」

 最初のビジネスは「フロリダのディズニーワールドのスタジオで新日本対WCWの試合をPPVで行ったイベントだった」と振り返る。そして、新日本側から大きな計画を打診された。95年4月、北朝鮮でのプロレスイベントの開催だ。(取材・構成 福留 崇広)

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