【あの時】98年ロッテあぁ18連敗〈4〉「倒れるまで、やらせて下さい」…近藤昭仁さん追悼

98年7月18日、プロ野球連敗記録を塗り替え、報道陣に囲まれ球場を出るロッテ・近藤監督
98年7月18日、プロ野球連敗記録を塗り替え、報道陣に囲まれ球場を出るロッテ・近藤監督

 巨人の元ヘッドコーチで横浜やロッテで監督を務めた近藤昭仁氏が27日午前1時23分、敗血症性ショックのため川崎市内の病院で死去した。80歳だった。80歳だった。スポーツ報知では、2016年3月の紙面で5回連載した【あの時】を再掲します。

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 負の連鎖は、もはや人知を超越した段階に来ている。ロッテ・ナインがそれを痛感する“事件”があった。

 14連敗のまま迎えた7月4日、千葉マリンでのダイエー戦、その試合前だ。午後4時半。練習を終えたナインを待っていたのは、千葉神社の宮司だった。厳かな衣装に包まれた神主を前に、監督の近藤昭仁ら首脳陣、選手25人が頭を下げた。前代未聞ともいえる球場での厄払い。重光昭夫オーナー代行の発案だった。一塁ベンチにはお神酒や清めの塩がまかれた。エース格だった黒木知宏はこう振り返る。

 「僕は先発の準備でランニングをしていて、みんなが集まっている中に遅れて入ったんですが、『そこまで来てしまったのか…』と思いましたね。もう神頼みになってしまっていると」

 皮肉にもその夜、神が与えたのはさらなる試練だった。延長11回、5時間9分にも及ぶ死闘の末、15連敗を喫した。ある球団関係者は自嘲気味に話した。「ウチはお菓子の会社だもん、盛り塩よりも盛り砂糖の方が、効果があるかもなあ」

 連敗地獄の中、近藤の心労はピークに達していた。解任報道がさらにストレスを生んだ。それでもロッテグループの総帥・重光武雄オーナーからの激励の電話に、こう答えたことを覚えている。「倒れるまで、やらせて下さい」―。

 例えばよくある「休養」といった選択肢は、なかったのか。当時60歳。近藤は、ゆっくりと言葉を紡いだ。

 「逃げる気は、さらさらなかった。とにかく誰一人として、手抜きをしている選手はいなかったからね。選手の批判だけは、絶対しないようにと思っていたよ」

 遠征先で落ち込んでいる時、心が熱くなる電話があった。声の主は元巨人監督・藤田元司だった。近藤は89年から91年まで、ヘッドコーチとして第2次藤田政権を支えてきた。「無理するな。勝てないときは勝てない。選手をくさすなよ」。温かい言葉が心にしみた。

 実はロッテに縁もゆかりもなかった近藤が指揮官に就任したのも、藤田のはからいだった。ロッテのフロントから「立て直し役に最適な人はいないか」と相談された藤田が、95年の横浜監督を最後に現場から離れていた近藤へと、白羽の矢を立てたのだ。「藤田さんから頼まれたら、断れないじゃん。他の人からの頼みだったら、やらなかったよ」

 勝利に見放され、不眠に苦しんでいた時、藤田が「1錠飲めば、グッスリ眠れる」と睡眠薬をくれたこともある。口にすると、本当に熟睡できてしまった。近藤は言う。「飲むのをやめたよ。怖くなっちゃって。大変な仕事だよな、監督は」(特別取材班)=敬称略=

 ◇謎の爆発騒ぎも 12連敗を喫した6月28日。千葉マリンでの近鉄戦では6点ビハインドの6回裏、三塁側2階内野席で時限発火装置付きの爆竹が破裂。「バババーン」との爆音が球場内にこだまし、1万5000人の観衆や両軍が騒然となる一幕もあった。幸いけが人はいなかったが、千葉西署の警察官2人が現場検証を行うなど、球場は不穏な空気に包まれた。

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