挑戦し続けるメダリストに敬服 全盲の柔道家・松本義和さん

全盲の柔道家・松本義和氏(左)。長男は旧知の井岡弘樹氏(右)のもとでボクシングに励んでいる
全盲の柔道家・松本義和氏(左)。長男は旧知の井岡弘樹氏(右)のもとでボクシングに励んでいる

 ボクシング担当記者として、世界王者と同じ数だけ勇敢な挑戦者たちを見てきたが、最近出会った“挑戦者”は別格だった。先日、大阪・井岡弘樹ジムでの取材中のこと。子連れの大柄な男性がジムの入り口ドアを開けた。井岡弘樹会長(50)と旧知の仲で、2000年パラリンピックシドニー大会柔道男子100キロ級銅メダリストの松本義和さん(56)=アイワ松本治療院=だった。小学6年の長男・瑛太くんが「ボクシングをしたい」と言い出したため、約30年前から治療院の客だった井岡会長に息子を預けることにした。楽しそうに練習する瑛太くんを眺めながら松本さんと雑談するうち、私は次第に彼の人生に引き込まれた。

 松本さんはテニス部所属だった高校時代、緑内障を患って視力が落ち始めた。「多感な時期に家にいるだけとなり、よく気が狂わなかった」と振り返る。きっかけは高校卒業後、19歳の時に区役所の担当者に勧められ、目の不自由な人のための総合福祉施設「日本ライトハウス」(大阪市)に入所した事だった。6人部屋で自分と同じ境遇の仲間5人と話すうちに「胸のつかえが取れた」。同施設から弁護士や教員になった先輩がいると聞き、生きる気力を取り戻した。20歳で全盲となったが「もう落ちることはない。上を向いて行くだけや」と思えた。

 83年4月に入学した大阪府視覚支援学校で「体を鍛えたい」と部活で始めたのが、柔道との出会いだった。身長は現在と同じ186センチだったが、体重は当時63キロ。「やる限りは強くなりたい」と稽古と筋トレに励み、支援学校の近畿大会では常に上位だった。3年後に卒業し、国家試験を受け、しん灸やマッサージの資格を取得した。24歳で大阪市内に治療院を開業。柔道も辞める予定だったが、86年11月の「第1回全日本視覚障害者柔道大会」に出場し、71キロ級で完敗。全国レベルを痛感し、負けん気に火がついた。

 翌87年の第2回大会は、88年パラリンピックソウル大会から正式種目となった柔道の国内予選を兼ねていたが、78キロ級で出場し、またも完敗。練習仲間だった支援学校時代の先輩がソウルで銀メダルを獲得したことも発奮材料になった。92年バルセロナ、96年アトランタの両大会もあと一歩で出場権を逃したが、あきらめることなく「朝から晩まで柔道のことを考え、ヒマがあれば筋トレをしていた」。100キロ級で00年シドニー大会出場権を獲得。本番でも勝ち進んで見事、銅メダルを獲得した。

 シドニー大会の選手村でのこと。松本さんは車いすの女子マラソン選手と談笑し、あることを自覚した。

 「まっちゃん(松本さん)、何でそんなに元気なの? 目が見えないって大変でしょ」

 「いえいえ、車いすの方が大変でしょ」

 「そんなことないよ。もし、生まれ変わって、どちらかの障害を選ぶとしたら、どうする?」

 「そりゃ、目が見えない方を選びますよ」

 「私は車いすを選ぶわ」

松本さんは、自分も彼女もすっかり障害を乗り越えていることに気付いたという。

 「パラリンピックを目指したことが最大のリハビリだった」。シドニー大会で目標をかなえて自信もつき、恋愛にも積極的になったという。登山仲間だった健常者の愛(ちか)さんと04年にゴールイン。長女・涼さんと瑛太くんに恵まれた。

 銅メダルに満足することなく、04年アテネ大会にも出場し、初戦でシドニー金メダルの米国選手に惜敗。08年北京、12年ロンドン、16年リオの予選はいずれも国内2位と3大会連続で“パラ切符”を逃しており、目指すは20年東京大会。周囲に50代選手はおらず、出場すれば快挙だ。

 柔道5段。平日は午後6時まで治療院の仕事をし、道場で稽古を重ねる。趣味のマラソンでもフルは十数回、100キロも2度完走するなどアグレッシブな松本さん。今でも時々は電柱にぶつかることがあるが「『まあええか』が口癖。ここに電柱があることを知った、と思えるようになった」と笑い飛ばす。ぜひ、来年の東京大会で会いたい。(記者コラム・田村 龍一)

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