【世紀つなぐ提言】田中聡子〈上〉、イメトレ結実 高3で出場のローマ五輪で銅メダル

1960年日本水上選手権の女子200メートル背泳ぎ決勝。レースを終えて場内の計時のアナウンスに耳を傾ける田中聡子
1960年日本水上選手権の女子200メートル背泳ぎ決勝。レースを終えて場内の計時のアナウンスに耳を傾ける田中聡子
当時を振り返る竹宇治(旧姓・田中)聡子さん
当時を振り返る竹宇治(旧姓・田中)聡子さん

 1958年5月、東京で開かれたアジア大会100メートル背泳ぎで日本新をマークし優勝、8月の日本選手権でも優勝して頭角を現したのが、福岡・筑紫女学園高1年だった竹宇治(旧姓・田中)聡子だった。順調に階段を上っていたが9月に病気になり、練習ができなくなった。

 その素質にホレ込み、自ら指導を買って出ていた八幡製鉄所(現新日鉄住金)コーチの黒佐年明は、泳げなくなった竹宇治に意外な言葉をかけた。「君にも世界記録が出せるよ」。竹宇治は「病人に何言ってんだ、この人は」と思った。黒佐は200メートルの世界新をマークした米国選手の50メートルごとのラップを調べ「君でも出せるタイムで泳いでいる」と、当時では珍しいイメージトレーニングをスタートさせた。

 50メートルを40秒で泳ぐと仮定すると、頭の中で泳いでいる姿を思い浮かべ、40秒だと思った時にテーブルを叩いた。「できたらケーキが食べられたんですけど、なかなかできなかった。でも何十回、何百回やっていると、できるようになった」。12月に病気が完治すると、インターバルトレも始まった。黒佐が陸上の練習にヒントを得て、50メートルを42秒で泳ぎ30秒休む―という練習を10本繰り返した。次は40秒にタイムを縮めるという厳しいものだったが「心肺機能が強くなって、バテなくなった」。

 この2つのトレーニングが実を結んだのが、高校2年生の59年に迎えた日本選手権。200メートル背泳ぎで世界新を叩き出した。「ああ、こういうふうに泳げば記録が出るんだと思った」。翌年のローマ五輪は高3での出場。「その頃、五輪というのは何だか分からなかった。海外に行くのも初めて、飛行機に乗るも初めてで楽しかったですね」

 100メートル背泳ぎ決勝は、3位から5位まで1分11秒4で並んだ。当時は手動計時。順位は目視で決めたが、竹宇治は36年ベルリン五輪200メートル平泳ぎで金メダルを獲得した前畑秀子以来、日本女子2人目のメダリストになった。「それから、人生が変わりました」(編集委員・久浦真一)

 ◆竹宇治聡子(たけうじ・さとこ)1942年2月3日、長崎・佐世保市生まれ。76歳。筑紫女学園高―八幡製鉄所(現新日鉄住金)。60年ローマ五輪100メートル背泳ぎ銅メダル、64年東京五輪同4位。日本選手権の背泳ぎは100メートル7度優勝、200メートルは8連覇。

1960年日本水上選手権の女子200メートル背泳ぎ決勝。レースを終えて場内の計時のアナウンスに耳を傾ける田中聡子
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