プロ公式戦20勝も「プロになれなかった」将棋の先生・甲斐日向さん「全てを伝えていきたい」

スポーツ報知
自らの教室で教える甲斐日向さん。アマ大会にも参戦する意向だ

 プロの公式戦で通算20勝9敗(対棋士戦で13勝7敗)という驚異の戦績を誇った将棋教室の先生がいる。棋士養成機関「奨励会」に在籍した元三段の甲斐日向さん(26)は昨年9月、四段(棋士)昇段の年齢制限を迎えて退会した。夢をかなえることは出来なかったが、同11月、東京・御徒町に「甲斐日向将棋教室」を開設。新しい夢は、生徒たちに将棋の楽しさや強くなる喜びを知ってもらうこと。人生の第2局を指し始めている。

 「プロになれなかった人」。甲斐さんのツイッターアカウントには、あまりに切ない自己紹介文が刻まれている。「でも、どんな人の教室なのか一目で分かりますよね。『元奨励会三段』では一般の方には伝わらないってことを退会してから知ったんです。何でも発見があるのは楽しいですね」。将棋を教えるプロという新しい夢を歩み始めた人は笑顔で言った。

 棋士になれなかったが、棋士と互角以上に戦った。公式戦には奨励会三段や女流棋士、アマチュアにも参加資格が開かれた棋戦があり、甲斐さんが残したのは通算20勝9敗、勝率・690という驚異の戦歴。勝率7割は一流棋士が行き来するラインだ。「同じくらい力があったとは言えるかもしれないですけど、棋士になれなかったわけですから。僕は技術以外の力がなかった。三段リーグでは公式戦のようには指せなかった」

 奨励会三段にとって、人生を懸ける三段リーグは公式戦以上に過酷な舞台となる。30人以上の三段が参加して半年にわたって各18局を戦い、1期に四段(棋士)昇段を果たすのは原則上位2人のみ。甲斐さんは13年度から10期在籍し、昇段争いの指標となる10勝以上を7度も挙げた。藤井聡太新四段が誕生した16年度前期は、最終日に2連勝していれば天才少年との同時昇段だった。「なぜ自分は棋士になれないんだろう、とずっともがいていました。半年間築き上げたものが崩れていくのはヤバイくらい苦しいです。対局の日は勝っても負けても眠れなかった。お酒に逃げたこともありますけど、意味ないってすぐ気付きました」

 昨年9月、年齢制限の26歳を迎えながら負け越しが確定。退会が決まった。「ただただ泣き続けました。2時間くらい街を歩き続けて、座り込んで、ずっと涙が止まらなかった」。かれるまで泣いても、将棋を恨んだりはしなかった。「自分が負けただけで、将棋は誰かのせいで負けることはあり得ないので。一般社会とは違って評価は要らないし、運もないです。自分が頑張ればいいという世界で生きることができたのは素晴らしいことでした」

 将棋を始めて17年。奨励会で14年を過ごした。中学2年、4級の時は過度の重圧で顔の左側がマヒし、まぶたが開かなくなった。「今思えば、あのくらいのレベルで何を気にしていたのかと思いますけど(笑い)」。中学卒業後は進学せず、棋士になることだけを夢見た。「僕の人格をつくったのは奨励会です。将棋はボードゲームですけど、僕にとっては人生を懸けた本当の勝負でした」

 全く違う世界で生きようと思っていたが、宿命に導かれた。退会から2日後、小学生の頃から通う「御徒町将棋センター」にあいさつに赴くと、甲斐さんの人柄を知る席主から誘われた。「ちょうど教室スペースを作ったところなんだけど、やらない?」

 教室では初心者、女性、有段者ら幅広い対象に教えている。「趣味で続けたい方には将棋の面白さを、強くなりたい方には強くなるための全てを伝えていきたいです」。悪戦苦闘の日々も「めっちゃ楽しいです」と笑う。「ワード、エクセル…やってみて、自分って将棋以外は何も出来ないんだなって」。入門書を読んで、自力でホームページをたち上げた。

 将棋の技術、苦しみを理解する優しさ、何かを目指す尊さ。棋士を夢見た14年間で得たものは今、甲斐さんの血肉になり、明日を照らす光になった。(北野 新太)

 ◆里見女流名人&伊藤女流二段は「活躍うれしい」

 甲斐さんにとって、27日に女流名人戦第2局を戦った里見香奈女流名人(26)は三段リーグの戦友で、伊藤沙恵女流二段(25)は奨励会同期。「奨励会と女流棋戦を両立した里見さんは本当に大変だったと思うし、素晴らしいこと。伊藤さんは小学生の時から今と変わらない厚みのある将棋でしたよ」。両者の今後に「棋士相手の公式戦でも活躍しててすごいですよね。戦った人が活躍するのは仲間としてうれしいので、もっともっと奨励会の強さを表現してほしいです」とエールを送った。

 ◆甲斐 日向(かい・ひゅうが)1992年6月25日、大宮(現・さいたま)市生まれ。26歳。武者野勝巳七段門下。9歳で将棋を始める。2004年、小6で棋士養成機関「奨励会」入会。13年、三段昇段。18年9月、年齢制限の26歳を迎えて退会。12~18年まで「NHK杯テレビ将棋トーナメント」に記録係として出演。印象的な名前は宮崎県出身の父が命名。「甲斐日向将棋教室」の情報はツイッターとインスタグラムで発信中。

 ◆後輩の高見泰地叡王「初めて駒音で目覚めた」

 高見泰地叡王「甲斐さんは1つ上の先輩で、小学生の頃から奨励会で一緒でした。20歳くらいからは、先輩方と一緒に借りた千駄ケ谷のシェアハウスで朝まで何度も将棋を指しました。早朝に『何か音がするなあ』と起きたら、甲斐さんが棋譜並べをしてて。駒音で目が覚めたのは生まれて初めてでした。『今日は記録係だから、今のうちにやっておこうかなって』と盤に向かう姿を間近で見て、将棋に対する姿勢を学びました。退会後に『高見君には感謝してます』と言ってくれましたけど、技術も含めて、吸収させてもらったのは自分の方です。人に愛される才能がある方。教室にお邪魔した時も生徒の皆さんと早速良い関係を築いていることが分かりましたよ」

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