人間は生理的に楽しい記憶よりも嫌な記憶のほうが心に残りやすいのだという。これは、危険を回避したり何度も同じ失敗をしないようにという防衛本能によるものらしい。だから、人間は基本的にネガティブな生き物だ。
「完全にネガティブ」と自己分析する巨人の小林誠司(29)はある意味、人間らしい人間なのかもしれない。勝負の世界は厳しい。その中でも、一塁にコンバートされたスーパーキャッチャー・阿部慎之助(39)からポジションを譲り受ける形となった小林は、特にシビアな視線にさらされてきたと言っていいだろう。
決して得意ではない打撃はもちろん、キャッチングやリードに至るまで厳しい指摘を受けた。日本生命からドラフト1位で巨人に入団したエリート。それだけでも注目されるのには十分なのに、顔まで端正だ。だから専門家やマスコミだけではなく、よく野球を知らない若い女性まで、多種多様な人たちが小林を論じるテーブルに着いた。そして、批判し、擁護し、合間に黄色い声援を送ったりした。
もはや、遠投115メートル、二塁への送球1・9秒の強肩を持つことも忘れられそうなカオス的状況の中で、小林は2014年の入団から出場試合数を伸ばしていった。試合に出られるのはもちろん幸せなことだが、注目度や責任が増す分、悔しさも募っていったに違いない。
小林はよく練習する選手だ。それも、とても幸せそうに。ロングティーでは遠くに飛んでいくボールを嬉しそうに見つめ、ランニングでは何が楽しいのか、満面の笑みで走り抜ける。苦しくて面白くないはずの捕球の反復練習でさえ、大声を出して笑っている。好きでたまらない野球を思い切り楽しんでいるその姿は最初、曇りのないように映った。でも、今では全く印象が違う。それは、悔しさで埋め尽くされた頭の中を少しでも楽しい、嬉しいに変えたい。ネガティブな自分に負けないように、前に進んでいきたいという必死の姿だ。
3年前の秋季練習で小林に聞かれたことを今でも覚えている。
「オレ、いっぱい練習してるよね?」
その日も室内練習場で最後までマシンを相手に振り込んでいたのが小林だった。もちろんだと即答したが、表情を崩すことなく彼はつぶやいた。
「オレはいい選手になれるのかな」
結果を残しても小林の心は変わらなかったのかもしれない。昨年は2年連続でリーグ1位の盗塁阻止率を記録。年間の捕逸はわずか「2」。これはシーズン130試合以上に出場した捕手では92年の古田敦也以来の少ない数字だ。打てないと言われながらも、16年、17年と2季連続で規定打席をクリアした捕手は小林だけだ。
侍ジャパンの正捕手になっても、ゴールデングラブ賞を獲得しても「打ちたいなあ」と弱音をこぼす。それでも「今年は勝負の年」と自らを奮い立たせ、早出のティー打撃を続けている。ボール拾いを手伝えば「こんな選手のために本当にすみません」と、返答に困る冗談を言う。彼は誤解されるかもしれない。でも、いつも感謝の気持ちを忘れず、批判に向き合い、真っ直ぐ自分の仕事と向き合っている。だから、ここまで成長できた。だから、同じように真っ直ぐな人たちの心をつかんだ。
エース・菅野智之(28)が「熱い男だ」と信頼を寄せる。大リーグ・カージナルスで活躍する元チームメートのマイルズ・マイコラス(29)がジャイアンツで最も印象に残った選手に小林の名前を挙げる。今年の球宴の選手間投票ではぶっちぎりの1位だった。
阿部という偉大な先輩の背中が大き過ぎるゆえに、彼は自分を責める傾向にあるのかもしれない。チームが優勝を逃し続ける中で、自分の重要性を今一つ信じきれないでいるのかもしれない。だが、そろそろ自分を信じていいころだ。7月27日の中日戦での山口俊(31)のノーヒットノーランも、5日の中日戦でプロ完封で3勝目を挙げた今村信貴(24)の快投も小林の力無しにはあり得なかっただろう。
何より、6月末から1か月にわたってスタメンを外れた間もベンチの最前列に立って声を出し続け、守備を終えて戻ってくる選手を最初に出迎えた。自分の代わりに出場した大城卓三(25)、宇佐見真吾(25)に自ら歩み寄って声をかけた。試合に出られなくても、チームが勝つためにできることをやり続けた自分を、苦しい時でも好きな野球に対して誠実だった自分を誇りに思っていい。
自分を信じることができなければ、チームメートに寄り添う余裕が生まれるはずがない。そして、それができれば、配球だって戦い方のイメージだって劇的に幅が広がる。今の小林が大事にしなければいけないのはきっと、目には見えない部分だ。
チームをけん引していた坂本勇人(29)が、けがで戦列を離れた。その分、誰かがチームを引っ張らなければならない。菅野は日本一のエースだが、開幕からフル回転を続けてきた右腕にこれ以上の負担を背負わせることはできないだろう。
もはや論理的でないのは承知で断言したい。離脱した日本一の遊撃手の存在感を埋められるのは、日本一の選手しかいない。情報戦の激化によって仕事量が増す捕手というポジションを考えれば、大城、宇佐見との3人体制でペナントを戦うのは当然の流れとも言える。でも、今の巨人を引っ張れるのは小林しかいない。なぜなら、小林誠司は、日本一のキャッチャーだからだ。(記者コラム・矢口 亨)