【#平成】〈1〉新元号発表会見の裏側…流行語「24時間タタカエマスカ」

平成発表会見に尽力した石附弘氏
平成発表会見に尽力した石附弘氏

 天皇陛下の生前退位により来年4月30日で30年の歴史を終え、残り1年となった「平成」。スポーツ報知では、平成の30年間を1年ごとにピックアップし、当時を振り返る連載「#(ハッシュタグ)平成」を掲載する。初回は平成元年。新元号ができるまでの経緯と、象徴的な場面としていまだに映像で流される「新元号発表会見」の裏側を追った。また、この年には栄養ドリンク「リゲイン」のCMがブレイク。話題を呼んだキャッチフレーズ「24時間タタカエマスカ」にも迫る。

 平成が始まる3年半前の1985年7月。内閣内政審議室長に就任した的場順三氏は、新元号制定の担当者として水面下で動き始めた。頭を悩ませたのが秘密保持。的場氏によると、79年の元号法制定前後から、有事に備えて各界の学者らが選んだ「新元号候補」が存在していたという。今では知られた事実だが、当時は「天皇の生前に元号候補を決めていた」とは明かせない。自身の在任中、中曽根、竹下両首相ら以外には伏せていた。

 隠密活動を続けるなか、87年2月にアクシデントが起こる。候補考案者3人のうち2人が相次いで亡くなったのだ。建前上「天皇崩御後に元号考案を学者に依頼する」ことになっていたので、故人の案はボツ。急きょ新しい学者を見つけ、考えてもらう必要があった。大人数で探せば周囲にバレる。文科省職員と2人だけで選定。適任の学者2人をようやく探し出した。

 当時は天皇陛下の容体悪化によりマスコミの新元号スクープ合戦も過熱。ある候補の学者の自宅に依頼のあいさつに行くと、大勢の記者が張り込んでいた。考案者の名前もマル秘。自宅訪問を断念し、学者の会議に紛れて面会、ようやく依頼にこぎつけた。最終的に東大の宇野精一名誉教授(中国哲学)、九大の目加田誠名誉教授(中国文学)、東大の山本達郎名誉教授(東洋史)に考案を依頼。宇野氏が「正化」、目加田氏が「修文」、山本氏が「平成」を第一候補とし、郵送で届けられた。

 1989年1月7日午前6時33分、天皇陛下崩御。この時点でどれが元号に採用されるかは決まっていなかった。当日午後に予定していた新元号発表会見まで約8時間。有識者による「元号に関する懇談会」や衆参両院の正副議長の意見聴取、全閣僚会議など各機関の了承を経て決定する手はずだった。「各所でアレコレ議論されちゃったら、時間的に間に合わない。すんなり決まるよう、こちらが『誰もが納得できる1案』を提示しなければいけなかったんですよ」

 午前8時20分の臨時閣議が近づいた。3案を見つめていた的場氏に妙案が浮かんだ。元号をアルファベットの頭文字を使って表すと「修文」「正化」は旧元号の「昭和」の「S」と重なる。これは後々、不都合が起こるのではないか―。各会議ではポイントを絞って説明、熱弁が効いたのか各会議が全会一致で「平成」支持となった。まさに綱渡り。想定通りに改元手続きを進めることができた。

 胸をなで下ろしたのも束の間。後日、予想外の落とし穴が待っていた。元号の制定手続きの要領には「俗用されているものでないこと」の条件がある。人名や商品名に使われていればアウト。岐阜県のある村の小字(こあざ)に「平成(へなり)」という地名があったのだ。「中華料理店の屋号とかまでチェックし、探し尽くしたつもりだったんですが…」。幸い大事には至らなかった。「正直、小字まで調べられるか!って心境でしたよ」。新元号制定の立役者は、約30年前の冷や汗止まらぬ瞬間を、苦笑いで振り返った。(樋口 智城)

 ◆的場 順三(まとば・じゅんぞう)1934年9月15日、滋賀県生まれ。83歳。大蔵省主計局主計官などを経て、86年から内閣官房内閣審議室長。退任後は国土事務次官を務めた。退官後は中小企業金融公庫副総裁などを歴任。06~07年に安倍内閣の内閣官房副長官を務めた。

 「新しい元号は『平成』であります」。小渕恵三官房長官は白木の額縁に飾られた「平成」の書を顔の右横に掲げた。傍らで会見をプロデュースした小渕氏秘書官・石附弘氏が安どの表情で見つめていた。

 テレビの生中継で新年号を発表するのは史上初。石附氏は見せ方次第で「新時代への期待感や雰囲気」が変わると考え、会見を重視していた。「昭和」は発表前に「新元号は光文」と報じられたほか、主要メディアがラジオで漢字の持つ独特の雰囲気を伝えられず、大衆の期待感を高められなかった経緯があった。

 各有識者と相談の上、まず「会見で年号が記された書を見せる」と決めた。「テレビの利点を生かせるのはこれしかないと思った。一発で『平成』を印象づけられる」。元号を披露する際の動きも研究。顔の横に掲げるのが最も印象的だと結論づけた。「半紙をアクリル板に貼り付ける」予定だったが、直前に相談したメディアに「カメラのフラッシュで光って見えない」と指摘され「半紙プラス白木の枠組み、アクリル板なし」となった。

 会見当日。石附氏は「平成」の文字を見て、書道につきものの「かすれ」がほとんどないことに気づいた。後に文字を書いた書家の河東純一氏に聞くと「確たる未来と新時代への力強さを見せるため、あえて抑えました」と説明された。テレビ会見の重要性は、全員が理解していた。

 後に小渕氏は、「ちびっ子に『テレビで見た平成オジサン』とはやされて困っているんだ」とうれしそうに話していたという。平成の幕開けを告げる会見は、昭和が作ったテレビ時代の集大成だった。

 ◆バブル時代の象徴フレーズ「24時間戦えますか」 「24時間タタカエマスカ」。栄養ドリンク「リゲイン」の広告に使われたキャッチコピーは、1989年の流行語大賞で銅賞に選ばれた。リゲインは製薬メーカー三共(現・第一三共ヘルスケア)が1988年4月に発売開始。翌年、俳優の時任三郎をCMのイメージキャラクターに起用すると、エネルギッシュな時代にマッチして大ブレイクした。

 時はバブル景気真っただ中。日本企業は次々と海外に進出。当時を知る同社関係者は「風邪薬のルルに代表される温かく優しい(企業)イメージだったので、挑戦的なコピーは経営陣の了承をすぐに得られたわけではなかった」と回想。「当時の事業部トップの決断でCMが誕生した。攻めたものであることは社内共通の認識だった」。世はイケイケの時代だったのだ。

 狙いは当たった。CD化したテーマ曲「勇気のしるし」は約60万枚の大ヒットに。忘年会シーズンのカラオケで定番となったのはもちろん、入社式や運動会、90年の夏の甲子園でまで流れるようになった。

 時任が出演したシリーズは15編作られ、91年に終了。働き方への意識の変化などとともにキャッチコピーも変わっていく。2014年に同社とライセンス契約したサントリーフーズから出た「リゲインエナジードリンク」のCMソングの歌詞は「24時間戦うのはしんどい」だった。

 働き方改革が進められ、今はパワハラや過労死が問題視される時代。このコピーが象徴するイケイケ時代は、今や「遠くなりにけり」だ。(甲斐 毅彦)

 【元号アラカルト】  

 ▼ルール 閣議決定された元号制定手続きによると〈1〉よい意味〈2〉漢字2字〈3〉書きやすい〈4〉読みやすい〈5〉これまでに元号又はおくり名として用いられたものでない〈6〉俗用されてないもの、の中から選ぶ

 ▼元号数 645年制定の「大化」から「平成」まで247個。漢字4文字は5つ、それ以外は2文字

 ▼使用漢字 トップは「永」の29回。「平成」の「平」は12回で19位、「成」は初使用だった。

 ▼過去に候補 「平成」は、明治の1つ前の「慶応」改元の際にも候補に。「大正」は過去5回の候補入りの末に採用。

 ▼決定機関 昭和以前は菅原道真の末裔「菅原家」が中心になって制定。平成から学者が考案し、政府が決定するシステムに。

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