上田利治さんをしのぶ、“上田野球の申し子” 大橋穣さんが思い出語った

阪急が勝利した77年日本シリーズ第2戦。投打のヒーロー、足立(右)と福本(左)の手を上げる監督の上田さん
阪急が勝利した77年日本シリーズ第2戦。投打のヒーロー、足立(右)と福本(左)の手を上げる監督の上田さん
大橋穣さん
大橋穣さん
日本ハム監督時代の99年、沖縄・名護キャンプで満面の笑みを見せる上田さん
日本ハム監督時代の99年、沖縄・名護キャンプで満面の笑みを見せる上田さん
78年日本シリーズ第7戦、ヤクルト・大杉の左翼ポール際の打球をめぐり、審判に猛抗議する阪急監督時代の上田さん
78年日本シリーズ第7戦、ヤクルト・大杉の左翼ポール際の打球をめぐり、審判に猛抗議する阪急監督時代の上田さん
76年の日本シリーズ第7戦。巨人を破って日本一となり胴上げされる上田さん
76年の日本シリーズ第7戦。巨人を破って日本一となり胴上げされる上田さん

 今年も多くの著名人が鬼籍に入った。球界では7月に、阪急・オリックス、日本ハムで監督として通算20年采配を振るい、歴代7位の1322勝を挙げた上田利治さんが死去(享年80)。リーグ優勝5回、日本一3回と阪急黄金時代を築いた名将を選手、コーチとして支えた“上田野球の申し子”大橋穣さん(71)がしのんだ。

 上田さんがヘッドコーチを務めていた阪急に、大橋さんが東映(現日本ハム)から移籍したのは72年。以来、コーチ・監督と選手として9年間、83年からともに首脳陣として8年間と、実に17年もの間、大橋さんは間近で上田さんに接してきた。

 「一言で言えば熱い人。何にしても熱かった。指導も熱血というか。何より野球が大好きな人だったよ」

 最も熱血漢ぶりが発揮されたのが、78年の日本シリーズ第7戦。ヤクルト・大杉勝男が左翼ポール際に放った打球が本塁打と判定されたことへの猛抗議は1時間19分に及び、お茶の間も熱狂。日本シリーズ史上最高の関東地区45・6%の空前の視聴率となった。

 「俺は(遊撃から)ボールを追っかけて走ってたから、よく見えていた。左翼の線審は『ポールを巻いた』って言ったけど、全然。一塁側のヤクルトベンチも、打った大杉さんも分かっていたと思うよ。飛び出してきたウエさん(上田監督)に『絶対ファウルだから譲っちゃダメですよ!』って言ったら『分かった!』と。あの時は気合が入ってた」

 勝利への執念は、すさまじかった。

 「『グラウンドで相手と話すな。ケンカをやってんだ』と、よく言っていた。『笑顔を見せるな』とも。川崎球場で(ロッテ)金田監督が投手に『ぶつけー!』って叫ぶと、ウエさんが『お前も行ったれー!』と。そういうのを聞いて俺らも気持ちが入った。今は、どの監督もおとなしいじゃない。あの頃はすごかったよ(笑い)」

 74年の監督就任時、上田さんは37歳。選手には“兄貴”的な存在だった。足立光宏、山田久志、山口高志、福本豊、加藤秀司、マルカーノらが主力となり、75年から3年連続日本一、リーグ4連覇。グラウンドでは厳しかったが、私生活を縛ることはなかった。

 「若いから元気だった。キャンプでも朝早くからね。ただ、飲み歩いても、何も言わなかった。選手を大人扱いしていたんだな」

愛称「ペロ」 大橋さんは強肩遊撃手としてダイヤモンド(現ゴールデン)グラブを7度受賞(72~78年、7年連続はパ・リーグ遊撃手最多)。南海などで多く対戦した野村克也氏に「お前がいなかったら、俺は3000本(安打)打っていた」と言わせたほど広い守備範囲を誇った。移籍したばかりの大橋さんに、打つ際、捕球する際に舌が出てしまう癖から「ペロ」の愛称をつけてチームに溶け込ませたのは上田さん。細やかな目配り、気遣いができる人だった。

 「他のレギュラーはすごい選手ばかりだったから、代打を出すとしたら俺か中沢(伸二捕手)のところ。でも『ペロ、勝っている時は絶対代えないから。守りを頼むぞ』と言ってくれてね。ありがたいことだよな。羽田空港で土産を買ってくれたこともあった。『嫁さんに持って帰れ』と」

 熱い人だったが、情にも厚かった。

 「V2の年(76年)かな。優勝旅行でハワイに行った時、パーティーで『こうやって来られるのは、みんなのお陰だ。ありがとう』って言って泣いたんだ。選手時代に成績を残せてないから、そういうことも言えたのかな」

 選手との距離は一定に保ち、大橋さんも食事を共にした記憶はあまりないという。しかし、一度聴いた歌声は印象に残っている。

 「ある年、球宴休みの練習を神戸でやった後、宿舎で珍しく一緒に食事をしたんだ。カラオケがあったから、歌ってくださいよ、って言ったら美空ひばりの『港町十三番地』を歌ってね。上手? う~ん。普通だったかな(笑い)。でも、すごく記憶に残ってる」

 “ノミの心臓”だった今井雄太郎が、試合前にアルコールの力を借りて好投した話は伝説だ。

 「忘れもしないよ。大阪球場での試合前、ブルペンから帰ってきた雄太郎に(投手コーチの)梶本(隆夫)さんが『飲んでみい。変わるかもしれへん』ってビールを飲ませたんだ。俺はそばで見ていて『え~!』と驚いた。そしたら、いい投球したのよ。あれも、ウエさんがやらせたんじゃないかな。今なら大変なことだよね(笑い)」

 大橋さんは81年の春季キャンプで右肩を骨折。出番が減った。翌年、上田監督に引導を渡され、コーチに就任。後進の指導にあたって数年がたったある日、上田さんに呼び出される。

 「何だろう、と思いながら行ったら『ペロ、現役復帰してくれないか』と。真顔で。打撃重視のイメージがあるかもしれないけど、本当は守備から固めていく考えの人。遊撃手に物足りなさを感じていたのかな。『兼任でもいい』って言われたけど、『もうできません』と断った。驚いたけど、そう言ってくれたのは信頼してくれていた証し。感謝しているよ」

 無死または1死一、三塁で走者をスタートさせ、併殺を回避して1点を奪いにいくエンドランを考案したのは上田監督だったという。采配が失敗だったと思えば潔く認める、信頼できる指揮官だった。

 「ヤクルトのコーチになった時、野村監督に聞かれたよ。『ウエがやっていたあれは、どういうケースで(打者、走者が)どういう条件でやるんだ?』って。最近は走者三塁でセーフティースクイズも多いけど、あれは(選手に委ねられて)監督に都合がいいから。ウエさんは、はっきりサインを出して責任を取った。スクイズを外されたら『悪かった。俺がサインを出すカウントを間違えた』って」

 阪急はオリックスになり、ブレーブスの名前は消えた。

 「“ブレーブス”とは“勇者たち”。うまいことつけたと思うよ。そうだった感じがするもの。いい名前だった。“阪急色”がなくなるのは、ウエさんが一番寂しがっているんじゃないかなあ」

(取材・田中 俊光)

 ◆上田 利治(うえだ・としはる)1937年1月18日、徳島・宍喰町(現・海陽町)出身。海南高から進んだ関大では村山実(阪神)とバッテリーを組む。59年に広島入りも121試合の出場にとどまり、3年で引退。69年まで広島コーチ。71年から阪急コーチ、74年から監督。78年日本シリーズ後に退任したが、81年に復帰。75~78、84年リーグ優勝。75年から3年連続日本一。オリックスに変わった89年からも2年間指揮を執り、95~99年、日本ハム監督。監督通算2574試合、1322勝(歴代7位)1136敗116分け。2003年に殿堂入り。

 ◆大橋 穣(おおはし・ゆたか)1946年5月29日、東京・新宿区出身。71歳。日大三高から亜大に進み、68年ドラフト1位で東映入団。1年目から遊撃のレギュラーをつかむ。71年5月3日、ロッテ戦の延長10回に本塁打を放ち、日米通じて他に例のない「5者連続本塁打」に絡む(3人目)。72年阪急移籍。82年限りで引退。阪急・オリックス、中日、ヤクルトで守備・走塁コーチ、2軍監督などを歴任し、台湾・統一で監督、韓国・SKでコーチ。ベストナイン5度(72~76年)。通算14年、1372試合、打率2割1分、96本塁打、311打点。

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