スポーツその他

【箱根への道】中大伝説の6連覇、支えたひとりのOB

1964年1月3日、小雪が舞う中、アンカーがゴールし、中大は箱根駅伝6連覇を達成した。今も連覇記録は破られていない

 第95回箱根駅伝(2、3日)で東海大が悲願の初優勝を飾った。史上3校目の5連覇を狙った青学大は2位。青学大の連覇が止まったことで、1959~64年に6連覇を果たした中大の偉業が改めて際立つことになった。箱根駅伝を生中継する日本テレビの解説者としておなじみの碓井哲雄さん(77)は中大のエースとして5、6連覇目に貢献。当時の母校の強さの秘密を語った。(取材、構成・竹内 達朗)

 “絶対王者”が敗れた。学生3大駅伝開幕戦の出雲駅伝(昨年10月)、第2戦の全日本大学駅伝(同11月)を連勝して優勝候補の筆頭だった青学大は往路6位の出遅れが響き、東海大と3分41秒差の2位に終わった。

 「毎年、選手が入れ替わる学生スポーツで勝ち続けることは難しい。青学大は復路で意地を見せた。立派な2位だと思います」

 日本テレビの解説者として約11時間に及ぶ戦いを見守った碓井さんは、優しい笑みをたたえながら“元王者”をたたえた。勝負に「たられば」は禁句だが、もし青学大が勝ち続けていれば、2度目の東京五輪を迎える2020年に6連覇を果たし、くしくも最初の東京五輪が行われた1964年に6連覇を達成した中大に並んだ計算になる。平成最後の大会で青学大の連覇が4で止まったことで、昭和30年代後半に中大が成し遂げた6連覇の偉大さが改めてクローズアップされる。碓井さんは中大のエースとして63年は10区でV5、64年は2区でV6に貢献した。当時の中大の恐るべき強さのエピソードを明かす。

 「山上りの5区と山下りの6区以外の8区間は選ばれたメンバー8人がくじ引きで決めていた。つまり、誰がどこを走っても勝つだろう、ということですよ」

 なぜ、中大はこれほど強かったのか。当時は全国高校総体で活躍した選手、さらには碓井さんのように実業団経由の強豪ランナーが軒並み入学した。碓井さんは、今、表舞台でほとんど語られることがない、ひとりのOBの存在を明かす。

 「歴史に埋もれているが、佐藤昇さんというOBの功績が大きい。当時、まだ日本は貧しかった。佐藤さんは自腹で食費や寮費を援助することを条件に好選手を勧誘した。ただ、金は出すけど、試合や練習について口は出さない。OBの鑑(かがみ)のような人でした。その後、佐藤さんはある事件で立件され、迷惑がかかるから、と中大陸上部にかかわることから手を引いた。当時、中大は大学として、ほとんど何もしていません。中大が強かったのは佐藤さんのお陰。最後、佐藤さんは小さなアパートの一室で亡くなった。佐藤さんのことを語らない人もいるが、私は佐藤さんの功績を忘れたことはありません」

 中大陸上部は最大の“スポンサー”がいなくなったことで徐々に力を失った。代わって台頭したのが日大だった。中大が7連覇に挑んだ65年、碓井さんは再び2区を担い、4人抜きの区間2位と健闘したが、チームは日大に敗れた。

 「中大は個人の力に頼っていたが、日大は当時、すでに大学としてスポーツ推薦枠や奨学金など強化策を整えていました。昔も今も日大の組織力は強いですね」

 碓井さんは箱根駅伝で勝ち続ける喜びと同時に、勝ち続ける難しさも知っている。そして、箱根駅伝は決してゴールではないことを強調する。64年の東京五輪には中大で箱根駅伝を駆けた選手が5人出場した。

 「私は五輪に届かなかったが、仲間は五輪の舞台に立ってくれた。1920年、箱根駅伝は『世界で通用する選手を育成する』という理念を掲げて創設されました。いつの時代も学生ランナーは『箱根から世界へ』という気概を持ち続けてほしいですね」

 箱根駅伝の“レジェンド”の言葉は重い。

 ◆碓井 哲雄(うすい・てつお)1941年10月28日、東京・中央区生まれ。77歳。中1から陸上を始める。中大杉並高(現中大付高)2年時に全国高校駅伝4区区間賞。60年、東急入社。61年に東急に所属しながら中大に入学。同年の日本選手権5000メートル、1万メートル2位。62年に東急を退社し、中大陸上部に入部。箱根駅伝は2年10区3位、3年2区3位、4年2区2位。65年に卒業後、名鉄で競技を続ける。28歳で現役引退。その後、ビジネスマンを経てホンダ監督と中大コーチを兼任した。現在は神奈川工科大監督。

最新一覧