クロアチアから東京五輪へ! 五輪世代のレフティー浦田樹が欧州挑戦で得たもの 

クロアチア1部でプレーするDF浦田(提供写真)

 今季からクロアチア1部ヴァラジュディンに所属する東京五輪世代DF浦田樹(23)が、オンラインでインタビューに応じた。U―21日本代表に選出された経験を持つ、正確無比な左足が武器のサイドバック。クロアチアでの近況、そして来年夏に延期された東京五輪への思いを語った。(取材・構成=井上 信太郎)

 クロアチア北西部の都市、ヴァラジュディン。18世紀には首都でもあった古都で、ひとりの日本人が奮闘している。浦田樹―。今季開幕から左サイドバックのポジションをつかむと、ここまで6試合連続で先発出場。先月30日のロコモティーバ・ザグレブ戦では左クロスからアシストを記録し、その節のリーグベストイレブンに選出。次節の今月13日のイストラ戦でも、CKから正確な左足で2試合連続のアシストを記録した。

 「まだ始まったばかりですけど、アシストという結果は、チームメートや監督から信頼を得るためにも大きかったと思います。やっぱり左足が武器なので。この左足で、日本でも、海外でも、勝負してきましたから。これをシーズン通して継続するのが大事。公式戦自体が1年半ぶりぐらいですからね。本当に久しぶりにサッカー選手やっているなという感じです」

 クロアチアにたどり着くまでに、紆余(うよ)曲折という言葉では足りないぐらい、様々なことがあった。U―21日本代表に選ばれていた18年、J3北九州のレギュラーとして26試合に出場(1得点)。だが契約延長には至らず、トライアウトにも参加。それでもJクラブからの声はかからなかった。そして年が明けて迎えた19年1月29日、22歳の誕生日にウクライナ1部ゾリャ・ルハーンシクから練習参加のオファーが届いた。

 「欧州リーグにも出ているクラブだったので、このチームに入れれば、大きくステップアップできる可能性は秘めているなと思いました。もう行くしかないなと。元々海外に行きたい気持ちもあったので、そんなに抵抗はなく、勢いで行きましたね」

 練習参加2日目で、もも裏を肉離れするアクシデントに見舞われながらも、無事に本契約。そこからの半年はトップチームで練習を重ねながら、U―21の試合に出て、ウクライナのサッカーに慣れる日々を送った。そして、いざ勝負の新シーズン、と思っていた矢先、新しく就任した監督から衝撃の事実を告げられた。

 「チームが始動して1週間はトレーニングでも調子が良かったんですけど、いきなりキャンプの不参加を伝えられました。事実上の戦力外ですね。夏の移籍期間に他のクラブから話しはあったんですけど、チームと長期契約を結んでいたので金額で折り合わなくて…。冬まで残るしかなくなってしまった。最初はU―21の練習にも参加させてもらえず、許されたのは毎日30分のジョギングのみ。本当何しに来ているんだろうと。ぶっちゃけ、やる意味はどこにあるんだという感じになりましたね」

 2週間ほどは自暴自棄に陥った。まわりの誰も信じられないような状況。嫌でも自分自身と向き合うことになった。毎晩、日記を書くようになった。自分はどうなりたいのか。何が足りないのか。おのずと答えは見えた。

 「もう今やれることをやるしかないなと。チームでは2か月ぐらいはジョギングだけでしたけど、他にも自分で家の近くのジムに行って2部練習をして、体を見直しました。食事も改善して、日本の栄養士さんと連絡を取ってサポートを受けながら、前向きにやれましたね。体重は69キロから73キロまで増えました」

 屈辱の日々をプラスに変え、1月には双方合意の下で契約解除。だがその後もうまくはいかなかった。スペインに渡ったが、契約には至らず。モンテネグロ1部のチームからオファーが届き、当初は行く気だったが、出発当日に取りやめた。

 「モンテネグロに行こうかなと思って、荷物をまとめて、出発の4時間前ぐらいまで行く気満々だったんです。でも冷静に考えたら、モンテネグロは欧州内でもリーグのレベルが低い。そこからステップアップするのは難しいし、時間がかかるなと。だから賭けではありましたし、迷いましたけど、どこにも所属せず、夏まで待つことにしました」

 今年2月に一時的に日本に帰国。社会人チームの練習に参加しながらコンディションを維持した。途中で後十字じん帯を損傷するアクシデントに見舞われたが、夏前には完治。そして7月中旬に現在所属するヴァラジュディンからオファーが届き、再びプロサッカー選手の道を歩み始めた。

 「今だから思えることですけど、ウクライナでの時間も無駄じゃなかった。ウクライナで1番感じたのは、うまいんじゃなくて、戦う、走る部分がないと評価されないんだということ。練習から監督にも、選手にも、もっと戦えよ、って言われるんですよ。日本にいた頃は、自分はうまい選手だと思っていた。やっぱりどこか浮かれていたんでしょうね。世代別の代表に選ばれてもいたし、サッカー選手としてどういう心構えでいるべきなのか、全然理解できていなかった。土台がないのに、小手先の技術ばかりを求めていた。そこの思考が変わったのは大きなポイントでしたね。自分は結局うまくないんだなと気付きました」

 守備に対する考え方も180度変わった。日本では組織的に守る部分が多く、下がって、抜かれないことを意識していた。だがウクライナ、そしてクロアチアでは個で守ることが求められ、課題でもあった1対1が磨かれていった。

 「やっぱりボールを奪いに行く守備が求められる。日本にいるときは、まずは抜かれないようにと下がりがちだった。でも今では、当たり負けしなくなったのもあるし、ボールを取りに行くのか、行かないのか、その判断が良くなりました。1対1で負けなくなったし、守備の部分で自信がついたのは大きいですね」

 なぜ、ここまで諦めずにやれるのか。それは来年夏に延期になった東京五輪という目標があるからだ。森保一監督(52)率いる東京五輪チームがたちあがった17年12月のM―150杯(タイ)、そして翌18年1月のU―23アジア選手権(中国)と、2度連続でメンバーに選出された。どんな苦境に陥っても、東京五輪のことは常に頭の片隅にあった。

 「同世代の活躍はやっぱり刺激になりますよ。森保ジャパンに入って、所属チームがない状況を経験したのは、きっと僕ぐらい。まわりは無理だろうと思っていると思いますけど、またあの五輪チームに入れたら、色んな人に勇気を与えられるんじゃないかと思っています。やっぱり最大の目標ですし、そこを達成できるように毎試合やっています」

 その道は険しいことも、もちろん理解している。東京行きの切符をつかむために、クロアチアでただ試合に出るだけでなく、活躍して、さらにステップアップする姿を思い描いている。

 「冬でステップアップできたら、また可能性が変わってくるかなと思います。クロアチアは、以前にカズさんや伊野波さんがプレーしましたけど、日本人はあまり来ていない。まずはクロアチアで活躍して、日本人の価値を高めたい。やっぱり、1番は東京五輪という目標がある。もっと活躍して、どん底からはい上がったモデルみたいになりたいですね」

 アウトサイダーなサッカー人生かもしれない。それでも自分を信じ、自分の足で道を切り開いていく。

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